坂口健太郎さんは、

自分の中にも、場にも、

他者が入る場所を空けている。

演じるためには、
役を理解する必要がある。

どのような人間で、
何を感じ、
なぜ、その行動を選ぶのか。

けれど、
理解したことを、
すべて表現へ出せばいいわけではない。

感情を決め、
反応を決め、
人物の意味まで決めてしまえば、

役は、
演じる側の理解の中で閉じてしまう。

坂口健太郎さんの演技には、
決めたものを、そのまま外へ出すのではなく、

相手から受け取るための場所が、

空けられている。

自分の中から、持ってくる

坂口さんは、
自分の中にあるものしか、
演じることはできないと語る。

経験していない人生であっても、
役の感情と重なるものを、
自分が生きてきた時間の中から探す。

傷ついた感覚。

相手の愛情を確かめたくなる気持ち。

愛していても、
優しくできない瞬間。

役の感情を、
外側から再現するのではない。

自分の内側にあるものと接続し、
役の感情が動く場所をつくる。

しかし、
自分から始めることと、
自分だけで演じることは違う。

坂口さんは、
自分の感情を役へ持っていきながら、

その感情だけで、

役を完成させてはいない。

観る側が入る場所

演じる側が、
役の感情をすべて説明すると、

観る側は、
提示された感情を受け取るだけになる。

ここでは悲しむ。

この人物には共感する。

この行動は、
こう理解する。

作品の中に、
あらかじめ答えが置かれてしまう。

けれど、
同じ場面を観ても、
人の中に生まれるものは同じではない。

自分の経験と重ねる人がいる。

登場人物に、
過去の誰かを見る人がいる。

理解できなかった感情に、
初めて触れる人もいる。

作品は、
演じる側がすべてを渡すことで成立するのではない。

渡されなかった場所へ、
観る側の人生が入ることで、

その人の中に、
別の感情や思考が生まれる。

坂口さんは、
観る人が入る場所まで含めて、

ひとつの作品としている。

相手が入る場所

映画『私はあなたを知らない、』で、
坂口さんが特に大切にしていたのは、

相手の言葉や感情を、
聞くことだった。

目の前の相手が、
どのような表情をしているのか。

どのような感情を、
こちらへ向けてくるのか。

それを受け取ったことで、
役の反応が変わる。

先に感情を決め、
その感情を相手へ向けるのではない。

自分の中に用意したものと、
相手から届いたものが重なった場所で、

その瞬間の反応が生まれる。

自分の感情ですべてを埋めてしまえば、
相手が入る場所はなくなる。

だから、
自分の内側から役をつくりながら、
相手によって動ける場所を空けておく。

役は一人の内側ではなく、

二人のあいだで生き始める。

感情を、そのまま出さない

心の中で動いている感情と、
外側に現れる感情は、
同じ大きさとは限らない。

強く傷ついていても、
声が大きくなるとは限らない。

愛情を求めていても、
素直に求めるとは限らない。

感情が大きいほど、
まっすぐ外へ出るわけでもない。

坂口さんは、
役の内側で起きているものを、
そのまま声や表情へ移さない。

感情は確かに動いている。

けれど、
そのすべてが説明されるわけではない。

内側と外側のあいだに、
距離が残されている。

その距離があるから、
観る側は、

表情の奥にあるものを想像できる。

人間を、ひとつにしない

人の感情は、
一辺倒ではない。

傷ついて、
相手の愛情を試す。

愛していても、
意地悪をする。

守る立場にいても、
自分の感情に揺れる。

矛盾して見える行動も、
人間の中では、
同時に存在している。

坂口さんが役の中に見ているのは、
綺麗に整理された感情ではなく、
複数の感情を同時に抱える人間である。

この人は優しい。

この人は弱い。

この人は身勝手だ。

ひとつの性質だけで、
人物を説明しない。

人間を、
ひとつの答えに回収しない。

だから役の中に、
観る側がまだ知らない部分が、

残り続ける。

観る側が入る場所

演じる側が、
役の感情をすべて説明すると、

観る側は、
提示された感情を受け取るだけになる。

ここでは悲しむ。

この人物には共感する。

この行動は、
こう理解する。

作品の中に、
あらかじめ答えが置かれてしまう。

けれど、
同じ場面を観ても、
人の中に生まれるものは同じではない。

自分の経験と重ねる人がいる。

登場人物に、
過去の誰かを見る人がいる。

理解できなかった感情に、
初めて触れる人もいる。

作品は、
演じる側がすべてを渡すことで成立するのではない。

渡されなかった場所へ、
観る側の人生が入ることで、

その人の中に、
別の感情や思考が生まれる。

坂口さんは、
観る人が入る場所まで含めて、

ひとつの作品としている。

自分の輪郭で、埋めない

坂口さんが空けているのは、
演技の中だけではない。

俳優としての自分自身も、
ひとつの像で埋めていない。

本人の輪郭が強く固定されるほど、
異なる役を演じても、
同じ人物の印象が先に立つことがある。

役が俳優を通るのではなく、
俳優の像が役を覆ってしまう。

坂口さんが近年演じてきた役柄は、
それぞれ大きく異なる。

それでも、
どの役にも、
最初から決められた坂口健太郎像が置かれているわけではない。

自分らしさを、
同じ表情や佇まいとして繰り返さない。

新しい役が入ってきたとき、
その人物によって、
自分の現れ方が変わる場所を残している。

自分の輪郭を失うのではない。

自分の輪郭だけで、

すべてを埋めないのである。

空けておく

坂口健太郎さんは、
自分の内側から役をつくりながら、
相手によって変わる場所を空けている。

自分だけで、
役も、作品も、自分自身も埋めない。

その内側の構造は、
坂口さんの佇まいに、
人を受け入れる柔らかさとして現れている。

演技には、
相手とのあいだで生まれる反応がある。

自分の中でつくった人物が、
目の前の相手によって動く。

それが、
役がその場で生きているような、
実在感につながっている。

表情の奥にある感情も、
ひとつの意味に定めきらない。

そこへ観る人の人生が入り、
同じ作品から生まれる感情や思考は、
一人ひとり異なる。

俳優としての自分も、
ひとつの像に固定しない。

新しい役に出会うたび、
その人物によって現れ方が変わる。

演じる役柄が、
坂口健太郎というひとつの印象へ揃えられず、
それぞれ異なる輪郭を持つ人物として立ち上がる。

坂口さんが空けている場所には、

相手が入り、
観る人が入り、

まだ出会っていない役が入る。

つながる一篇


vol.36 だから、届く

一人ひとりの人生を祝福する歌で、
その音楽家は、
あえて「少し人間味を削ぐ」ように歌った。

なぜ、感情を強く出さないことが、
聴く人の心に届く方法になるのか。