安心しているはずの場で、
なぜか呼吸が浅くなることがある。
誰かが「大丈夫だよ」と言い、
周囲もそれに合わせてうなずいている。
声の調子は柔らかく、空気も穏やかに見える。
問題は何も起きていないように思える。
それでも、身体は少しだけ構える。
肩がわずかに上がり、
呼吸が深くならないまま、時間だけが過ぎていく。
安心とは、本来、
力が抜ける状態のはずだ。
気を張らなくてもよく、
言葉を選ばなくてもいい感覚。
けれど、ときどき
「安心しているように振る舞うこと」が
場の前提になっている場所がある。
安心していることを示さなければならない空気。
不安を持たないことが、
暗黙の了解になっている場。
そうした場所では、
誰も緊張していないはずなのに、
空気だけが少し硬い。
その硬さは、
声を荒げることで生まれるものではない。
沈黙が許されないことでもない。
むしろ、
「問題はない」と確認し合う回数が
増えれば増えるほど、
身体は静かに身構えていく。
安心とは、
言葉で共有されるものではなく、
態度や間の中で
自然に立ち上がるものなのかもしれない。
だから、
安心している“ふり”が重なるとき、
人は無意識に、
自分の感覚を少しだけ引っ込める。
呼吸が浅くなるのは、
その小さな引っ込み思案の合図だ。
あの場で感じた違和感も、
不安だったわけではない。
ただ、
安心という言葉と、
身体の感覚が
同じ温度にいなかっただけだと思う。
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Raffinē
内側の美と、思考の記録。