嵐さんは、

人気者だっただけではない。


人々の人生の時間の中に、

存在していた。

嵐さんは、
国民的スターだった。

売上。

視聴率。

知名度。

記録だけを見れば、
優れたスターは他にもいる。

それでも、
嵐さんは「国民的」と呼ばれた。

それは、
人気の規模が違ったからではない。

社会との結びつき方が違ったからだ。

社会の共通風景

テレビが、
多くの人の共通の入口だった時代。

国民的番組。

五輪ナビゲーター。

大量のCM出演。

ドラマ。

バラエティ。

音楽番組。

一人ひとりの生活の中に、
繰り返し現れていた。

朝のテレビ。

学校から帰った夕方。

家族との食卓。

年末の紅白。

人々は、
嵐さんを探していたわけではない。

生活を送る中で、
自然と嵐さんに出会っていた。

嵐さんは、
作品の中だけに存在していたのではない。

社会の共通風景の中に存在していた。

記憶になる存在

人は、
作品だけを記憶しているのではない。

その作品に触れていた、
自分自身を記憶している。

卒業式。

震災。

家族との時間。

友人との帰り道。

人生には、
その時代だけの風景がある。

音楽がある。

テレビがある。

空気がある。

そして、
そこに存在していた人がいる。

だから人は、
嵐さんを見ていたのではない。

自分の人生の時間の中で、

嵐さんと共に過ごしていた。

なぜ嵐さんだったのか

嵐さんが特別だったのは、
あの5人だったからだけではない。

当時はまだ、
人々が同じ番組を見ていた。

同じCMを見ていた。

同じ話題を共有していた。

社会には、
まだ共通の時間が存在していた。

その共通の時間の中に、
嵐さんは何度も現れた。

一人の人生の記憶と、
別の誰かの人生の記憶。

本来は別々に流れている時間の中に、
同じ存在がいる。

それが、
無数の人の間で重なっていく。

だから、
嵐さんの記憶は、
個人の記憶に留まらなかった。

社会全体の記憶になった。

国民的スターが生まれにくくなった理由

今、
社会の構造は変わった。

動画配信。

SNS。

ショート動画。

人は、
自分が見たいものを選べるようになった。

好きな人をフォローし、
好きな作品を選び、
アルゴリズムによって自分に近い情報に触れる。

一人ひとりが、
それぞれの時間を生きている。

そこで失われたのは、
単に「みんなが同じテレビを見ること」
だけではない。

ある存在が、
その人を好きかどうかに関係なく、

人々の生活の中へ
繰り返し現れる構造そのものが、
弱くなった。

かつては、
誰かのファンではなくても、

テレビをつければ見る。

CMで見る。

年末に見る。

家族が見ている番組で見る。

自分から探さなくても、
同じ存在と何度も出会った。

現在は違う。

巨大なスターは生まれる。

何百万人もの人から支持される人もいる。

けれど、
その人を選んでいない人の生活にまで、

同じ存在が、
同じ密度で現れ続けることは難しい。

分散したのは、
人気だけではない。

社会を生きる人々の、
時間そのものだ。

だから、
スターがいなくなったのではない。

社会全体が、
一人のスターと同じ時間を共有する構造が、
失われつつある。

嵐さんやSMAPさんのような
国民的スターが生まれた背景には、

スター自身の力だけではなく、

一つの存在を、

社会全体の記憶へ変えていく構造があった。

社会の記憶になる

国民的スターとは、
人気を集めた人ではない。

社会の時間を背負い、

社会の記憶になった存在である。

つながる一篇


vol.54 違う入口から、同じ場所へ

誰もが同じものを、
見ている時代ではなくなった。

それでも、
あるグループには、
「次の国民的アイドル」という言葉が向けられている。

人の関心が分かれた時代に、
一つの存在へ、人はどう集まるのか。